はづにっき

ぐーたらオタクの備忘録的日記

ゴッホの話(長い)

あっ…2018年だ…

とうとう年が明けてしかも桜が散ってしまったんだけども、書き始めた頃から予想してたし想定範囲内なのだわ…震えてなどない………これからは頑張りましょう…(頑張った試しがない時の顔)

 

去年、年の瀬に、映画を見ました。

こちらの映画です。

ゴッホ〜最期の手紙〜

私は画家の中でも、ゴッホに特に思い入れがあるのですよ。

 

この映画を見て、改めて、ゴッホを好きになったきっかけと、ゴッホの生い立ち、ゴッホに対しての思いを備忘録的に記しておこうと思いました。

 

あれは2005年ごろ、学校の授業の一環かなんかで京都の美術館へゴッホ展を見に行きました。

学生の中でも、特に絵自体に興味のない人達は足早に、多少なりとも絵を見るのが好きな(そして金払ったからには元を取ろうという守銭奴的思想の)私は、のんびり眺めておりましたら、周りからどんどん置いていかれ、やがてひとりぼっちで眺めていました。

 

しかしあの時、私が絵画そのものよりも気になって見入っていたのはゴッホの人となり、生い立ちの方でした。

よく絵画の横に、いついつの頃に描かれたものでこの頃の作者は何をしていただとか、どういう時代背景だったとか、注釈が書かれていますよね。

いつもなら流し見するその注釈、あの時なぜ魅入られたのか。

今となっても何故なのか分からないです。

 

そのとき私が感銘を受けた、私が知っているかぎりの彼の生い立ちをまとめてみました。

 

 

フィンセント・ファン・ゴッホ

彼は1853年、オランダ南部のズンデルトにある小さな教会の家に産まれました。

父は牧師をしており、幼い頃から宗教には興味を持っていたようです。
その証拠に彼の若い頃の作品には、聖書や燭台、骸骨などのモチーフが描かれたものも多く残っています。
兄弟は多く、その中でもゴッホは他の子供達と比べて性格的に少々異端であったとされています。
父や母もゴッホを持て余す一方、弟のテオドルズ(テオ)とは仲が良く、テオも兄ゴッホをとても慕っていました。

 

1869年、16歳でディーラーとして画廊で働くことになりますが、この頃、下宿先の娘に恋をします。
しかし、あっさり失恋。

この失恋をきっかけに仕事に身が入らなくなり、仕事にならないような行動ばかりするので、結局クビになってしまいます。

 

その後、宗教に興味があったゴッホは牧師を目指し神学校へ通うも挫折。
ならばと伝道師になるべく炭坑場で説法をするも、貧しい人達を見るや自分の衣服や食物を全て分け与えるなどを繰り返し、厳しい労働環境にある炭鉱夫たちの生活に自らも合わせるなどしました。
その行動が献身的すぎるため「常軌を逸している」と見なされ、伝導師の免許を剥奪、追い出されてしまうのでした。

 


ゴッホにはもう、絵を描く道しか残されていませんでした。

弟のテオは画家を目指すというゴッホにとても良くしてくれ、尊敬する兄の芸術の才能を誰よりも信じ、画材や家賃などの金銭面でも支援をしてくれました。
炭坑場を追い出された後もゴッホは、貧しい農民達や田園風景などを題材に絵を書き続け、弟の甲斐甲斐しい援助もあって、1880年に20代半ばにして画家になる事を決意したのです。

 

画家として生きることを決意したゴッホは、周囲の画家たちとも積極的に交流を図り、様々な影響を受けます。
また、日本の浮世絵にも興味を持ち、浮世絵独特の明快な色使いや影の無い世界に多大な影響を受けたといいます。
テオからの金銭的精神的な支援により、絵を描き続けながら暮らす毎日。

 

そして1888年、フランスのアルルの気候を気に入ったゴッホはそこに一つのアパートを借り、当時交流のあった画家たちを集め、作品制作をしながら互いを高め合う『理想郷(ユートピア)』を創ろうと計画したのです。

今にすると約5万円ほどのアパートを彼は「黄色い家」と呼び、そこに自分の絵を飾り、画家たちを招きました。

しかし結局、その誘いにのってくれたのは、ゴーギャンただ一人でした。

 

その後、ふたりの画家の共同生活が始まるのですが…しばらく経つと、ゴッホゴーギャン…二人の絵に対する取り組み方、作風の違いなどで意見が食い違い、度々喧嘩をするようになります。

ゴーギャンとの繰り返される言い争い、アルコールを飲んでも紛らわすことのできない不安感、彼は遠からずここを去ってしまうのではないかという焦燥感、思い描いていた共同生活と現実との剥離。
精神的にひどく不安定になったゴッホは、自分の左耳を剃刀で削ぎ落とすという事件を起こします。

 

結局、共同生活は9週目にして幕を閉じ、ゴーギャンは「黄色い家」を後にするのでした。 

 

婚約したばかりのテオも、報せを聞き驚いてすぐさま兄の元へと向かいました。
その後、自らの意思で1年間ほどサン=レミの精神病院へ入院し、しかしその間も院内で筆をとり、作品制作は止めることなく続けていました。
この頃のうねるような絵のタッチ、ゴッホの精神世界を表現しているかのような作品が目立ちます。

 

その後、体調の回復と同時にパリのオーヴェル・シュル・オワーズに住処を移します。
療養先のガシェ医師は、絵画も堪能でゴッホとよく絵について語り合うこともあったそうです。
オーヴェルでのゴッホは、発作もなく筆の走りも良く、たくさんの絵を描きあげました。約2カ月で80点以上の作品が出来上がったと言われています。
テオも生まれたばかりの息子と妻を連れ、遊びに来たことが手紙のやりとりから記録されています。

この頃…結婚、妻ヨーの妊娠出産と、弟を取り巻く環境が変わることにゴッホは動揺していました。
自分への援助が弟の家計を圧迫しているという罪悪感や、見捨てられるのではないかという不安感。
しかし弟の幸せを心から喜んでいたのも事実でした。
テオは、自分の息子に敬愛する兄の名、フィンセントと名付けました。ゴッホの心配の通り金銭面で妻と口論することもありましたが、兄への援助を打ち切るつもりはありませんでした。

 

しかし、少しずつ少しずつ暗く重い影が、ゴッホの心を蝕んでいきました。

 


7月27日、蒸し暑い日、カラスのいる麦畑、ゴッホは自分の胸をピストルで撃ち抜いて自殺を図ります。

ガシェ医師が呼ばれた時には、宿のベッドで横たわり虫の息の彼がそこにいました。「大丈夫だ助かる」医師がそう励ますと、ゴッホは「それならもう一度撃たねば」と答えたそうです。
次の日、報せを聞いたテオが駆けつけると「泣かないで…ぼくは皆のために良かれと思ってやったんだ」と、さめざめと泣き崩れる弟を慰めました。

 


そして2日後の7月29日、弟テオに看取られながら、フィンセント・ファン・ゴッホは37歳の短い人生に、自らの手で幕を下ろしました。

 

 

 

美術館に並ぶゴッホの絵画たち
若い頃の繊細で必死な絵
画家を目指し始めた頃のタッチを探るような絵
良き友に出会えた頃の生き生きとした絵
そして晩年の何かが渦巻いているような激しくしかし壊れ物のような切ない絵

展示作品の中に「黄色い家」の絵がありました。
ゴッホが最も楽しかった頃の思い出の絵であろうそれです。

 

私はその絵の前で思いました。

きっと、ゴッホはこの絵を描きながら、もうすぐ始まる画家達との共同生活を夢見て、期待に胸を膨らませていたんだろうな。
今まで友と呼べる友もおらず、不器用な人生を送ってきた自分に、やっと仲間ができて嬉しかったんだろうな。

ゴッホの代表作である「ひまわり」
この作品は、皆で住む予定だったあの「黄色い家」の壁に飾ろうと描いた1枚なのです。
花瓶に挿されているひまわりの数は、ゴッホが黄色い家へ招待した画家と同じ数だけ挿されていたといいます。

それなのに、来てくれたのはゴーギャンひとり。
しかもそのゴーギャンとも喧嘩になり、最悪の形で別れ、結局はまた元のひとりぼっちに戻ってしまいます。

 

 

どうして

 

 

なぜか胸がいっぱいになって、しばらくその絵の前から動けなかった
この人は幸せだったのか
絵を描いて、ずっと絵を描いて、売れなくても理解されなくても苦しくてもそれでもずっとほんとうに死ぬまで絵を描いて
一人ぼっちが嫌いで寂しがりやで、胸の内の有り余る情熱を絵を描くことでしか表現できなかったような人

 

情熱的で直情的、思い込みが激しく周囲からしばし「変人」「狂人」と言われていたゴッホ
しかし、誰よりも人との関わりを欲し、人の役に立ちたいと願っていたゴッホ

ゴッホの唯一とも言える良き理解者、弟テオへ宛てた手紙にも、その気持ちは記されています。
2人の兄弟の文通は、途中途切れながらも約20年間に渡って続けられていました。

彼が生きている間に売れた絵の枚数は、
生涯たったの一枚だと言います。
「赤い葡萄畑」
彼の晩年の作品です。

今でこそ評価され高値のつくゴッホの絵も、当時は誰にも理解されず、評価してもらえなかったのです。

孤高の天才、故に孤独。

 

今、あなたの絵を見るためにたくさんの人が美術館に詰めかけていることを知ったら、どんな顔をするだろうか。
泣くだろうか笑うだろうか。
死の淵で絶望したのだろうか、それとも安らかな気持ちだったのだろうか。
異国の人間が、もうずっと何年も前にいなくなったあなたの絵を見て、あなたの人生を知って、あなたを思って涙が出ると言ったら、どう思うのだろうか。
あなたの後を追うように1年後亡くなった弟のことを知ったら、どう思うのだろうか。
知る術はもうない。あなたがいないから。

 

でも絵は残った。
残された絵と、兄弟の絆とも言える文通の数々、弟の妻が死後も大切にしてくれていたコレクション、記録、生前の友人、あなたの作品を好きだと言ってくれた人達、たくさんの人があなたのことを伝えてくれた。

あなたが文字通り命をかけて残してくれた絵画で、遠い異国の地からあなたを思うことができる。

ゴッホってすごいな、芸術家ってこういう人のことを言うのかな。

 


全ての絵を見終わる頃には、私はどこか別の場所からタイムスリップしてきたような感覚になっていて、根気よく待ってくれていた友達と引率の先生にずいぶん熱心だったねと言われてやっと正気に戻りました。
学生だったので画集を買うこともできずに、そのままフラフラと図書館に寄って、ゴッホの本を何冊か借りて帰った記憶があります。

 

そんな思い出があって、ゴッホはいまだに私の中では、なんというか特別な存在と言える画家なのです。

映画について語ろうと思ったらゴッホだけで文字数半端なくなったので、映画の感想は次の日記で。